偏見おじさんの 知的な痴的な偏見エッセー

@偏見おじさん said「偏見」という言葉に対する偏見を一旦忘れて。 偏見=物事のひとつの見方という立場から始めないと、何も始まらない。

第380回 SHORT2 論〜思い出の瞳 REMEMBER EYES(2)

缶詰みかんが金魚に見えて

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朝礼台がインディアンの顔に見えた
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人の顔が、人が人のお面をつけたように、二重に見える

だめだめ PVC お面 アケミちゃん 1個

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第233回 SHORT2論~思い出の瞳
http://www.voiceblog.jp/princesscp/1997410.html


思い出の瞳 (REMEMBER EYES)

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  • DATE OF BIRTH
  • Rock
  • ¥250

第379回 絶対にモテないユーモア 論〜100年の恋もさめるか。ゆるすか。

テレビ東京のお見合いパーティー番組に出演し、笑ものにされた男がいた。本人は真剣そのもの。その分、周りから観たら喜劇以外の何ものでもない。
仕事が終わり、ひとりテレビを観ながらビールを飲んでいると「ゼクシィがなきゃ結婚できない」というコマーシャルを目にした。そうなのか!「ゼクシィがなきゃ結婚できない」つまり「ゼクシィがありゃ結婚できる」の意。特に誇大広告として注意を受けているコマーシャルでもない。そんなことからゼクシィを精読し、3年かけて準備を整えた。

ゼクシィ首都圏 2015年 1月号

ゼクシィ首都圏 2015年 1月号

いよいよ結婚式。
初めての共同作業。
ウェディングケーキを目の前に、新婦はカチコチ。
チョコンとしたイチゴ。
緊張をほぐそうとする男。
確かこういう時はユーモアだ。ゼクシィに書いてあった。
「こりゃあ。ケーキ入刀ってより、ケーキ乳頭だあ」

ここで100年の恋もさめたという面をするなら、引き返した方がいい。
もし、にっこり笑ってくれたら。

♪♪ぱかぱかーん ぱかぱかーん
あいらーびゅー♪♪\(^o^)/

第378回 「自分たちのサッカーができなかった」とは何か 論〜キャプテン翼世代のツッコミ・リスクヘッジ

2014年W杯。
グループ予選で惨敗した日本代表。
選手は皆、口にした「自分たちのサッカーができなかった」と。

一億総もやもや。
このコメントは一体どうゆう!?
様々なツッコミが飛び交った。

キャプテン翼 (第1巻) (ジャンプ・コミックス)

キャプテン翼 (第1巻) (ジャンプ・コミックス)

・自分たちのサッカー とは何か。
自分たちのサッカーが「できなかった」じゃなく「できる」ことが総合的な強さなのでは。例えば人が何かを間違えた時「間違えました。次は気をつけます」とミスを認め次をめざすパターン or「チェックができなかった」と責任の所在を棚に上げる素振りでいつまでも置きかねるポーズのパターンはツッコミ・リスクヘッジ型。
・自分たち とは代表メンバーを指すのだろうが、メンバーひとりひとりが「自分たちのサッカーは○○である」と共有していたか。それともメディアやファンの視点を含んだサッカーのスタイルを指すのか。
・そもそも「誇り」などに見られる欧米の借り物の言葉なのか。
・もし 自分たちのサッカー ができて、負けたらいったいどうコメントするのか。

これは、「絶対に負けられない戦い」に続くポエム発言として2014年 ユーキャン 新語・流行語大賞 にノミネート‥は、されなかった。

ポエムに万歳!

ポエムに万歳!

正直、彼らにしかわからない地平がある。それは言語化がたいへん難しい。難しいというより言語化に意味がない。言語化するべきものではなく、身体的だかこそ、カンドーしてんだろ!
しかしコメントという言語を求められるから、その地平からマスコミ向けに気持ちを翻訳しなければならなく、はたしてトランスレートされた言葉はやはりいっぺん通りの「自分たちのサッカーができなかった」というポエムになってしまう。それは本能的にポエムという解釈の余地がある希釈した言葉にしないと「通じない」ことが体験的にわかっているから。エゴや攻撃性や哲学を封じる。

というのは勝手な想像に過ぎない。

「自分たちのサッカーができなかった」という何が何だかわからない、5W1Hがぼんやりしてるモヤモヤ感は消えない。

モヤモヤしていたところ、ひとつの回答に出会ってしまった。

キャプテン翼」(1981〜)のセリフ。名門・修哲小学校が弱小チーム南葛に追い込まれた時のセリフ。
若林くん
(あわてるな!)「俺たちは俺たちのサッカーをすればいいんだ!」

ここにルーツがあった。
「俺たちのサッカー」は自意識そのものでもあり、免罪符でもある。サッカーまんがのバイブル、キャプテン翼を通らないサッカー選手はいない。この原体験が思わず口に出てしまったのは避けられない。

最後に、
キャプテン翼」OP/EDが沖田浩之ということを記しておきたい。鼻にかかった艶っぽい官能歌唱法は、THE WORLD FOOTBALL ANTHEMなどカラッとした南国ミュージックより、アジアのじめっとした逞しさをよく表してると思うのだ。
AH 〜Eきもち

ゴールデン☆ベスト 沖田浩之

ゴールデン☆ベスト 沖田浩之

第377回 4コマまんが 論〜ゴロワーズを吸ったことがある会 VS 禁煙学会

1.禁煙学会
ダメ!ゼッタイ!!

2.ゴロ会
ダメ!ゼッタイ!!ていうのはダメ!ゼッタイ!!

3.禁煙学会
ダメ!ゼッタイ!!ていうのはダメ!ゼッタイ!!ていうのはラメ!レッタイ!!

4.(あ‥噛んだ!)


第376回 昭和の子供 論〜山田太一「大人になるまでガマンする」

80年代後半、子供にスポットが当たったドラマがあった。

うちの子にかぎって(84)、毎度お騒がせします(85)、ママはアイドル(87)、パパはニュースキャスター(87)。

大人になるまでガマンする

大人になるまでガマンする


当時おれは小学校高学年と、まさにドラマの子供たちと同年代だったが、そういったスノッブなドラマなど見せてもらえなかった。ほのかな憧れの記憶だけがうっすらあったところ、「パパはニュースキャスター」を観た。

この時代。汚い暗いとされていた、ババアもプロレスラーも隠し子も浮気も不倫もやりチンもやりマンも強引に消毒され、フラットで明るい「同じ棚」に並べられ、消費されていた。
ミー子かハー子かというほどミーハーな女の子たちは、背伸びしている。大人のアクセサリーとしての位置を獲得する子供。大人目線の子供。恥とか可愛げのない世界。ドライ笑=イケてるという。

セーラー服通り (双葉文庫―名作シリーズ)

セーラー服通り (双葉文庫―名作シリーズ)

一方、山田太一「大人になるまでガマンする」(86)。
山田太一は60年代からテレビドラマに関わる。一貫して、例えば「岸辺のアルバム」(77)のように、「あったかホームドラマに疑問を呈す(壊す)」作品を描いてきた。
そんな山田太一が子供ブームにあってどういう回答を出したのか。

例えば「モモ」のようなイノセンスとグレイマンの二項対立を予想した。

しかし蓋を開けると、どうしうもなくリアルな子供ライフだった。ジュブナイルという横文字は似合わない。産まれた環境はどうしようもない。恥と憧れに満ちたありのままの子供の世界。
小学五年生男子。3人。飲み屋の息子、一流会社の息子、転校生。受験戦争。ちいさな恋心。
家族ゲーム」の受験生、宮川一朗太が家庭教師役なのが興味深い。飲み屋の夫婦は加藤健一と泉ピン子。一流企業夫婦は平田満大谷直子
ドラマの映像は残念ながら見ることができない。CSのリストにもないしもちろん商品化もない。テープを上書きしてしまったのだろう。だいたい配役から情景を再現することはできるのだが。

しかしどうしてこんなに子供の気持ちがわかるのか?
本のあとがきに、山田太一「夜遅くまで電車で塾通いをする子供を見かけたことと、当時出会った子供の詩に触発された」とある。
実際物語は飲み屋の息子の弟(小学二年生)の書く詩がポイントとなっていた。まだ半分夢の中の、支離滅裂な詩。

おれは唸った。さすがは時代と寝る脚本家。名回答。

すき好きノート

すき好きノート

全体的には浮かれてる感じがある。加藤健一と泉ピン子のイチャイチャするパターン(オードリーの「嫌いだったら一緒に漫才やってねえよ」エヘヘ ウフフ 的な)があり、山田太一作品では他にみたことがない。

第375回 狼 論〜宮下あきら「世紀末博狼伝サガ」

デコトラ「一匹狼軍団」でも一世風靡セピア「群狼」でもなく、ほんとうの狼というのは、
20世紀最後のピカレスクロマン・ギャグ・痛快・娯楽・エロまんが
JCデラックス「世紀末博狼伝サガ」(宮下あきら/1995〜98)の サガ だろう。

とにかく作者の虎丸の如きトボけた顔写真をカラーで、無責任な雑感・若者たちへのメッセージがコミックスのカバーに載っており、巻毎に楽しめるのはJCならでは。文庫化されたらあり得ない。

賽を振れ!

賽を振れ!

ちなみに氏の「魁!!男塾」のアニメーションOPテーマは一世風靡セピアのアルバム「Shibuya」収録曲「汚れちまった悲しみに‥」であり、その次に収録されているのが「群狼」というのは偶然ではないはずだ。狼は呼び寄せるパワーがある。

魁!!男塾(根性)
天より高く(勃起力)
世紀末博狼伝サガ(勝負力)

カジノ利権の正体 (別冊宝島 2261)

カジノ利権の正体 (別冊宝島 2261)


さて、拠るところのない一匹狼、サガ。麻雀、手本引き、チンチロリン、パチンコ、賭けゴルフ、スタッドポーカー、ルーレット、競馬、カブ、舞台もマカオ〜ラスベガスとおおよその賭け事のオリンピックを制してしまう。終いには作者自身が作中に登場する。端役として。分相応をわきまえつつそれでも、狼=漢を描き続ける。涙とギャグに包んで。
もう、宮下あきら自身が狼だと思わざるを得ない。

都のカジノ構想を予見した、早過ぎる娯楽まんが。
2020年が楽しみだ。

第374回 一匹狼軍団 論〜組織に属するか、フリーを選ぶか

「一匹狼軍団」と大書したデコトラを見かけて、どっちなんだ!?と笑ったことがあった。
また、一世風靡セピアに「群狼」という曲があった。
笑いながら、ちょっと笑えないところもあり。この違和感はいったいなんなのか。


さて、例えば何か秘め事を行うには、行わざるを得ない時は、「場」の問題は重要である。足がつくからだ。
ひとつの打開策として「移動式」というのがある。

阿佐田哲也「ドサ健ばくち地獄」では、マンションを見学するふりをして、鍵をかけずに、鍵を不動産屋に帰す。深夜にそっと忍び込み、ばくちを打つのである。
組織がない連中は、「常盆」(決まった賭博)というスタイルを持つことができない。保障がないからだ。

また、「ブレイキング・バッド」はキャンピングカーで砂漠に出てメスを作る。シーズン5では害虫駆除業者と組んで一時的な空き家を使う。

両者とも組織がない。場を確保することで手一杯に。
しかしだからといって組織に属すと、シガラミがうまれる。権限がない。身動きがとれない。搾取される。

「ドサ健ばくち地獄」では、しばらく一夜限りのマンションばくちが続いたが、声を潜めなければならないし、出前も取れないので、一時しのぎに終わった。最終的にはメンバーの「自宅」に場が移るも、決着はつかず、死屍累々とコロされた連中の山が残るのみ。

ブレイキング・バッド」はキャンピングカーでうろうろしていたがこれはリスクが大きかった。一時的に「組織」に入り安定した「場」を持つことができた。しかし組織からコロされそうになり、逆にコロしてしまう。インディーズとして再出発。それから害虫業者と組む。その結果どうなるのか。わからない。なぜなら今観ているのはシーズン5の途中だからだ。